【掌中の珠 最終章2】
「君は俺に毒を飲ませようとした?」
思ってもみなかったことを聞かれて、花の頭はフリーズした。
その顔を見た孟徳は、表情を変えないまま言う。
「何言われてるのかわからないって顔だね、ってことはあの教師が言う通り君はこの件にかんでないんだな」
安心した風でもないし、疑って悪かった風でもない。花の理解を超えている孟徳の態度は、花を混乱させた。
「私、そんな……私が孟徳さんに毒なんて、そんなことあるわけないじゃないですか!どうしてそんなこと…!!」
責めるように言ってしまった花に、孟徳は肩をすくめる。
「なんでもありなんだよ、人間ってね」
「そんな……そんなの、私はそんな風には思いません!だって私は孟徳さんを信じてて…」
「君は、君の先生のことも信じてたでしょ?」
「そ、そん……」
「俺に毒を盛るような人だなんて思ってなかったでしょ?」
「……」
「まあいいや、とにかく君がこの件と無関係なら話は簡単になる。花ちゃん、しばらくおとなしく…ん?なんだ、元譲。あと少しだから…」
後ろから元譲が孟徳を引っ張りわきへ連れていき何か話しているのを、花はぼんやりと見ていた。その後ろに若い武官が緊張したように立っていて、何か緊急の知らせを元譲に伝えたようだ。
もう頭が働かない…
先生を信じた私がばかだったの?
私が住んでた日本は、平和ボケしてるってよく言われてたけど、私もボケてたのかな?
じゃあ、今孟徳さんを信じてる私も馬鹿なのかな?
孟徳さんは私を信じていないのに?
その事実に、花は足元が開いて真っ暗な闇の中へ落ちていくように感じた。
これまで信じたものがすべて壊れてしまうような。
そうだ……
孟徳さんは、私を、信じていないんだ……
わかっていたはずなのに。分かっていたうえで、ここに残るって決めたはずなのに。
やっぱり心の底からはわかっていなかったんだ……
私にさっき聞いた時の孟徳さんは、全然悲しそうでも傷ついていた感じでもなかった。本当にただ事実を確かめただけ。
あの時孟徳さんは、私が孟徳さんを毒殺する可能性は当然あるって思ってた。
話し合っている孟徳と元譲の顔がどんどん厳しくなっていっていた。
武官や文官が差って言った方向から、また4,5人いらだったように戻ってくる。
「丞相!お早く願います!」
「あの女の父親の牧が諫言書を送ってきたのですぞ!」
「武装蜂起も辞さないと!」
「玄徳も同意してくれてるとまで言っておるのですぞ。これはもう謀反ではないですか!?」
口々に騒ぐ臣たちに向かって、孟徳は両腕を広げた。
「わかった!」
そして静かになったところで続ける。
「お前たちの言いたいことはわかった。その通り、あの地方は戦略上とても大事だ。玄徳に取られるわけにはいかない。」
そして息を深く吸う。
「出兵の準備をしろ!」
ははっ!と一同が平伏する。
「軍備が整い次第出発する。文若!」
わきに控えていた文若に声をかける。
「は!」
「牧と玄徳に文をかけ!三国停戦が成った今ことを荒立てることは本意ではない。速やかに下るようにとな!」
「はは!」
「あわせて今回の首謀者を速やかに処罰せよ。出発前にかたを付けるぞ!」
「はは!」
「孟徳さん!」
部下の返事に花の悲鳴が重なった。
「処罰って先生を…」
文若含め部下たちがあわただしく去っていく背中を見ながら、孟徳は振り向いた。
「極刑……死刑だよ」
「そんな…!」
「死刑なんて甘い処罰じゃなくて拷問の末市中引き回しの上打ち首にしたいくらいだけど、今は時間がない。今回の件は一歩間違えば君を巻き込んでいた。それが俺は許せない」
孟徳の優しい茶色の瞳は、真剣に怒ると暗く冷たく輝く。
「優しい君にはつらいだろうけど、今回は君の願いをかなえるつもりはないよ」
「……先生と……先生と会えないですか?本当に、本当に先生がそうしたくてしたのか聞きたいです」
孟徳は黙って花を見た。
「許可できない」
「孟徳さん!」
「そうしたかったのかどうかなんて俺にはどうでもいい。俺を殺そうとして君を暗殺事件に巻き込んだという結果だけで十分だ」
それは本当にその通りなので、花は何も言えなかった。
先生が望んでそれをしたにしろ、誰かに言われてしたにしろ、罪は罪なのだ。
しかも花の一番大事な人を殺そうとした。
そうだ、その時孟徳さんが気づかなかったら。もしかして毒入りの差し入れを食べちゃってたら……
想像して花は青ざめた。
孟徳は死に、花は殺され、国はさらに乱れるだろう。
黙り込んでいる花に、孟徳は続けた。
「だから、彼女を厨房にいれた者も毒を持ち込んだ者もみな死刑だ」
花は目を見開く。毒を持ち込んだ者、それはあの子たちのことだ。
「あの子たち…あの子たちは本当に何も知らないんです!あの子たちだけは、そんな死刑なんてしないでください!」
「だめだ。話はこれで終わり。お前たち!」
孟徳は、花の部屋を警護していた兵士二人を呼んだ。
「奥方様を部屋にお連れしてくれ」
「孟徳さん!嫌です!やめて!!お願いです!なんでも…なんでもいうことを聞きます。もう字を習うのも乗馬もやめます。ずっと部屋の中にいるから…孟徳さんの部屋で孟徳さんの帰りを待ってるから、だから、お願いです!」
花の言葉を聞いて、孟徳は寂しそうに笑った。
「俺がどれだけ頼んでも聞いてくれなかったのに、取引の材料としては使うんだね」
その皮肉に花はひるんだが、これだけはどうしてもゆずれなかった。
「それは、それはごめんなさい。それくらいの気持ちだっていうつもりで…」
「まあいいよ。なにをもらったとしてもどんなお願いを聞いてくれたとしてもこの処罰は変わらない」
これまで聞いたことのないような冷たい声で孟徳はそういうと、その場を去ろうとした。
「待ってください!待って!いつ……いつ処罰はされるんですか?」
「さあ。まだ決めてないけど出兵があるから2,3日中には」
そう答えて去ろうとして、孟徳は足を止めた。
「まさかと思うけど、助け出そうとか思ってないよね?」
思っていた。
花が見つけた小さな命。花があの時声をかけなければ。厨房に紹介しなければ。彼らはきっとまだおなかを減らしてあの市場で木の実を売っていたのだ。今日も、明日も、明後日も。
花のせいだ。花のせいで何も知らなかったあの子たちを宮廷の陰謀に巻き込んでしまった。
あの子たちだけは、何としてでも助けないと。
表情を見て孟徳はそれがわかったようだった。
「だめだよ。君が逃がしたら今度は君が危ない。俺でもかばいきれない。俺は君の言葉を信じたけど君もグルだと思っているものが大勢いるんだ」
「……でもじっとなんてしてられないです」
珍しく孟徳の顔にいらだちがよぎった。
「俺の頼みでも?」
「孟徳さんも私の頼みをきいてくれなかったじゃないですか!」
「俺に君を殺す命令を出させないでくれって言ってるんだよ!」
「死んでもいいです!」
悲鳴のような花の言葉に、孟徳は打たれたように黙った。
「私の命であの子たちが助かるなら、死んでもいいです!殺してください!」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら孟徳にそういった花から、孟徳はイライラしたように目をそらす。
「そこの二人!」
花の護衛の兵士二人に再び荒い声をかける。
「彼女を部屋に閉じ込めて決して出すな。何を言われても、だ。いや……それでも彼女は抜けだすな。鎖につなげ!」
その場にいた部下達が驚いたように顔をあげる。元譲が「おい…」と孟徳に声をかけたが、孟徳は無視をした。
「十分に長さをとって、手首と足首を鎖につなげ。それ以外は快適にすごせるように心を配るように」
吐き捨てるようにそういうと、孟徳は足早に歩き去っていった。
元譲の気づかわし気な様子が視界に入ってきたが、相次ぐショックで花はもう何も感じず立ち尽くしていた。
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